ルビーの気まぐれ 第五話 星空の記憶(1)
七月も中旬を過ぎていた。でも、まだ滝のように雨が降り続いている。ジメジメと湿度も多く、汗ばんだ下着がべとりと体に纏わりつく。古く狭いエレベータの中は息がつまりそうで蒸し暑く、仕事のやる気も頬をつたって流れ落ちた。
美奈子は会社のビルのエレベータを降りた。足元を気にしながら、自社の鉄の扉の前まで廊下を歩く。床は蟻が這うように無数の水滴で濡れており、滑りそうだった。
扉を開ける。オヤジの顔が見えた。そういう陽気で、オヤジの顔を直視するのは絵的に辛く全身が震えた。思わず、身を引きつらせながら目を瞑る。オールバックの油が熱を包み込むようで、むさ苦しかった。
(ふ~う、オヤジは無視して化粧室へ直行かしら。ストッキングが濡れたままだと気持ち悪いし。お化粧も直さないとね。その後は、ちょっとコーヒーでも飲んで休憩。オヤジの所へはその次くらいかな)
忍び足で壁づたいを進んだ美奈子は、奥の化粧室へ消えようとした。
「美奈子! 早くこちらへ来なさい」
オヤジの大きな声が部屋中に響き渡り、社員の視線が美奈子の背中に集まった。
美奈子は足がぴたっと止まり、背筋が伸びた。震えるような顔をしながら、オヤジの声の方へ振り向いた。
「あの、お化粧を直してからでもいいですか?」
「そんなもんは、直さなくても良い!」
額を光らせながら、オヤジは美奈子を見つめている。
「俺は気にせんし、うちはクラブじゃないからな」
「お化粧だけではないのです。色々とあるので・・・・・・」
顔を赤らめ、美奈子は小さな声で下を向いた。
オヤジは大きな声で少しからかうような口調で喋り出した。
「何だ、小便か。小学生じゃあるまいし、仕事の報告をしてからにしなさい。それくらい、我慢できるだろう」
「それって、セクハラだと思います!」
大きな声で顔を上げた美奈子は、胸をつんと出した。
オヤジは椅子の背を前後に揺すりながら大きな笑いを始めた。
「はっはあ、何を言うか。お前の尻を触った訳ではない。それに、うちは大企業じゃない。一にも二にも仕事優先! そうでないと、小さな会社はつぶれるからな。会社が倒産したらセクハラもクソもないだろう。ゴチャゴチャと、屁理屈をこねていないで早く仕事の報告をしなさい。それとも、査定を下げてほしいのか!」
「分かりました!」
目をつり上げて、美奈子はハンドバックを自分の席へばたんと放り投げた。肩で風を切るようにオヤジの机の前まで歩き、顔を膨らませながら立ち止まった。
「殆どのデザインはOKを頂きました。残りは北海道工場の取材とゲームの絵コンテです!」
「それは良かった。だが、ずいぶんと時間がかかったな。山中さんとの、無駄な話が多かったのではないか?」
白い扇子で顔を扇ぎながら、オヤジは目を細めていた。
美奈子は真っ赤な顔で頭から湯気を噴出した。オヤジの机の上を、右手で強く叩いた。
「それを言うなら、有益なお話が多かった、ですよね。北海道工場紹介のコンテンツやフリピタくんのゲームコンテンツまで増やして頂いたのだから。当初の予定より三倍のお見積もりで、一千万円の予算も軽く通して頂いたのですよ。山中さんのことを悪く言うと、バチが当たります!」
「まあまあ、冗談だから、そうむきになるな。ところで、彼とはうまくいっているのか?」
扇子をぱたっと閉じ、オヤジは頬を揺らしながら顔を美奈子に近づけた。
室内にいた全社員の耳がぴくりと大きく膨らんだ。美奈子の背中に覆いかぶさるようで、美奈子は全身がかあっと熱くなった。
美奈子は胸を突然揉まれたように狼狽した。両腕で胸を抱きしめ、その場で小さく踊り狂った。
「やめて下さい! 誰も知らないのだから。大きな声で言わないで下さい。仕事には関係ありません」
「いやいや、そうとも言えん。今回の仕事は彼がキーマンだ。彼の機嫌を損ねたら大事に至る。この案件を納品するまでは、彼とは良い関係を続けてほしい。なんなら、デート代を経費で多少みてやっても良いぞ。領収書を持ってきなさい」
冷静な顔で、オヤジは淡々と話した。
美奈子は鬼のような形相でオヤジを睨めつけ、右手をグーにしながら高く振りかざした。
「本当に怒りますよ!」
「何だ。折角、便宜を図ってやろうと思ったのに。まあ良い。くれぐれも、明日からの北海道出張は、そそうがないようにな。浮かれて工場の写真撮影を忘れるな!」
オヤジは大きく笑いながら、ドスの効いた目線で美奈子の瞳の奥を覗き込んでいた。
美奈子は顔を曇らせ、ひるんだ。胸の中を全て見透かされているようで、裸身を人前で晒すような恥ずかしさが込み上げてきた。美奈子は心のカーテンを閉じたかった。だから、ぷいっと横を向くしかなかった。
「ところで、そろそろ制作体制を考えないといかん。お前と渚では、少し心配だからな。コーダーを一名雇うことを考えている。どうだ、三人いれば楽勝だろう」
扇子を広げ、オヤジは顔を扇ぎながら陽気な声で高笑いを浮かべていた。
美奈子は大きく目を丸くしながらオヤジの顔を見直した。
「えっ、マジですか。五人は必要です」
「そんなに入れたら採算が合わん。例の賠償金を捻り出さんといかんからな。お前が三倍働けば三人で十分だ!」
真顔で目を据えながら、オヤジは前に乗り出した。
美奈子は顔を崩し、泣きが入った。
「そんな~、私が捻り出すのですか?」
「当たり前だろう!」
オヤジは扇子で机を叩いた。
顔を顰めながら美奈子は少し考え込むと、笑顔で話し出した。
「直樹くんを戻してもらえませんか? 彼ならばゲームコンテンツは得意だし、何とかなると思います」
「それは出来ん! 一度クビにした人間を戻すなんて会社のメンツが立たない」
渋い顔で、オヤジは首を横に振った。
美奈子は両手で強く机を叩きながら身を前に乗り出した。
「会社のメンツより、仕事優先です! 五人体制にするか、直樹くんを戻すか、どちらかに決断して下さい!」
「分かった分かった。まあ、落ちつけ。連絡はしてみよう。だが、二ヶ月も立っているから、ヤツも別の会社で仕事をしているだろう」
オヤジは両手で美奈子の体を押し返すまねをし、渋々と首を縦に振った。受話器を取りながら直樹の自宅の番号を押した。
「おい、通じんぞ。『お客様のお掛けになった電話番号は現在使われておりません』とよ!」
「きっと福島よ。実家に帰ったのだわ」
美奈子は少し考え込んでデートをしたときの言葉を思い出した。
オヤジは後ろの棚からファイルを取り出した。パラパラとめくり、直樹の履歴書を見つけると、直樹の実家へ電話を掛けた。
「ムーンライト・クリエイションの吉村と申します。村田直樹くんをお願いしたいのですが」
何故か、オヤジの顔から血の気が引き出した。顔が固まったようで、少し涙目になっていた。
「申し訳ありません。それでは失礼します」
オヤジは静に受話器を置き、腕を組みながら目を瞑っている。暫く沈黙の時が流れた。漸くオヤジは目を開き、ゆっくりと口を動かした。
「村田はダメだ。二ヶ月前、バイクの事故で亡くなった」
美奈子は背筋が寒くなり、喉が凍りつきそうになった。お台場の砂浜で、不器用なチークを踊った思い出が自然と頭の中を通り過ぎる。パソコン脇のペン立てに残された直樹の青い蛍光ペンが、寂しそうに美奈子を見つめるようだった。もう少し優しくしてあげれば良かったと、涙を流しながら窓ガラスを見つめ、美奈子は静に唇を噛み締めた。
窓ガラスには大河のようにサラサラと水が流れていた。水の向こうでは強い風が吹き荒れており、路駐のバイクが静に揺れている。サイドミラーに掛かったライトブルーのヘルメットが、悲しい顔で泣いているようだった。バイクの脇では、黒いローブをまとった魔術師が不気味な笑顔を浮かべていた。
美奈子は会社のビルのエレベータを降りた。足元を気にしながら、自社の鉄の扉の前まで廊下を歩く。床は蟻が這うように無数の水滴で濡れており、滑りそうだった。
扉を開ける。オヤジの顔が見えた。そういう陽気で、オヤジの顔を直視するのは絵的に辛く全身が震えた。思わず、身を引きつらせながら目を瞑る。オールバックの油が熱を包み込むようで、むさ苦しかった。
(ふ~う、オヤジは無視して化粧室へ直行かしら。ストッキングが濡れたままだと気持ち悪いし。お化粧も直さないとね。その後は、ちょっとコーヒーでも飲んで休憩。オヤジの所へはその次くらいかな)
忍び足で壁づたいを進んだ美奈子は、奥の化粧室へ消えようとした。
「美奈子! 早くこちらへ来なさい」
オヤジの大きな声が部屋中に響き渡り、社員の視線が美奈子の背中に集まった。
美奈子は足がぴたっと止まり、背筋が伸びた。震えるような顔をしながら、オヤジの声の方へ振り向いた。
「あの、お化粧を直してからでもいいですか?」
「そんなもんは、直さなくても良い!」
額を光らせながら、オヤジは美奈子を見つめている。
「俺は気にせんし、うちはクラブじゃないからな」
「お化粧だけではないのです。色々とあるので・・・・・・」
顔を赤らめ、美奈子は小さな声で下を向いた。
オヤジは大きな声で少しからかうような口調で喋り出した。
「何だ、小便か。小学生じゃあるまいし、仕事の報告をしてからにしなさい。それくらい、我慢できるだろう」
「それって、セクハラだと思います!」
大きな声で顔を上げた美奈子は、胸をつんと出した。
オヤジは椅子の背を前後に揺すりながら大きな笑いを始めた。
「はっはあ、何を言うか。お前の尻を触った訳ではない。それに、うちは大企業じゃない。一にも二にも仕事優先! そうでないと、小さな会社はつぶれるからな。会社が倒産したらセクハラもクソもないだろう。ゴチャゴチャと、屁理屈をこねていないで早く仕事の報告をしなさい。それとも、査定を下げてほしいのか!」
「分かりました!」
目をつり上げて、美奈子はハンドバックを自分の席へばたんと放り投げた。肩で風を切るようにオヤジの机の前まで歩き、顔を膨らませながら立ち止まった。
「殆どのデザインはOKを頂きました。残りは北海道工場の取材とゲームの絵コンテです!」
「それは良かった。だが、ずいぶんと時間がかかったな。山中さんとの、無駄な話が多かったのではないか?」
白い扇子で顔を扇ぎながら、オヤジは目を細めていた。
美奈子は真っ赤な顔で頭から湯気を噴出した。オヤジの机の上を、右手で強く叩いた。
「それを言うなら、有益なお話が多かった、ですよね。北海道工場紹介のコンテンツやフリピタくんのゲームコンテンツまで増やして頂いたのだから。当初の予定より三倍のお見積もりで、一千万円の予算も軽く通して頂いたのですよ。山中さんのことを悪く言うと、バチが当たります!」
「まあまあ、冗談だから、そうむきになるな。ところで、彼とはうまくいっているのか?」
扇子をぱたっと閉じ、オヤジは頬を揺らしながら顔を美奈子に近づけた。
室内にいた全社員の耳がぴくりと大きく膨らんだ。美奈子の背中に覆いかぶさるようで、美奈子は全身がかあっと熱くなった。
美奈子は胸を突然揉まれたように狼狽した。両腕で胸を抱きしめ、その場で小さく踊り狂った。
「やめて下さい! 誰も知らないのだから。大きな声で言わないで下さい。仕事には関係ありません」
「いやいや、そうとも言えん。今回の仕事は彼がキーマンだ。彼の機嫌を損ねたら大事に至る。この案件を納品するまでは、彼とは良い関係を続けてほしい。なんなら、デート代を経費で多少みてやっても良いぞ。領収書を持ってきなさい」
冷静な顔で、オヤジは淡々と話した。
美奈子は鬼のような形相でオヤジを睨めつけ、右手をグーにしながら高く振りかざした。
「本当に怒りますよ!」
「何だ。折角、便宜を図ってやろうと思ったのに。まあ良い。くれぐれも、明日からの北海道出張は、そそうがないようにな。浮かれて工場の写真撮影を忘れるな!」
オヤジは大きく笑いながら、ドスの効いた目線で美奈子の瞳の奥を覗き込んでいた。
美奈子は顔を曇らせ、ひるんだ。胸の中を全て見透かされているようで、裸身を人前で晒すような恥ずかしさが込み上げてきた。美奈子は心のカーテンを閉じたかった。だから、ぷいっと横を向くしかなかった。
「ところで、そろそろ制作体制を考えないといかん。お前と渚では、少し心配だからな。コーダーを一名雇うことを考えている。どうだ、三人いれば楽勝だろう」
扇子を広げ、オヤジは顔を扇ぎながら陽気な声で高笑いを浮かべていた。
美奈子は大きく目を丸くしながらオヤジの顔を見直した。
「えっ、マジですか。五人は必要です」
「そんなに入れたら採算が合わん。例の賠償金を捻り出さんといかんからな。お前が三倍働けば三人で十分だ!」
真顔で目を据えながら、オヤジは前に乗り出した。
美奈子は顔を崩し、泣きが入った。
「そんな~、私が捻り出すのですか?」
「当たり前だろう!」
オヤジは扇子で机を叩いた。
顔を顰めながら美奈子は少し考え込むと、笑顔で話し出した。
「直樹くんを戻してもらえませんか? 彼ならばゲームコンテンツは得意だし、何とかなると思います」
「それは出来ん! 一度クビにした人間を戻すなんて会社のメンツが立たない」
渋い顔で、オヤジは首を横に振った。
美奈子は両手で強く机を叩きながら身を前に乗り出した。
「会社のメンツより、仕事優先です! 五人体制にするか、直樹くんを戻すか、どちらかに決断して下さい!」
「分かった分かった。まあ、落ちつけ。連絡はしてみよう。だが、二ヶ月も立っているから、ヤツも別の会社で仕事をしているだろう」
オヤジは両手で美奈子の体を押し返すまねをし、渋々と首を縦に振った。受話器を取りながら直樹の自宅の番号を押した。
「おい、通じんぞ。『お客様のお掛けになった電話番号は現在使われておりません』とよ!」
「きっと福島よ。実家に帰ったのだわ」
美奈子は少し考え込んでデートをしたときの言葉を思い出した。
オヤジは後ろの棚からファイルを取り出した。パラパラとめくり、直樹の履歴書を見つけると、直樹の実家へ電話を掛けた。
「ムーンライト・クリエイションの吉村と申します。村田直樹くんをお願いしたいのですが」
何故か、オヤジの顔から血の気が引き出した。顔が固まったようで、少し涙目になっていた。
「申し訳ありません。それでは失礼します」
オヤジは静に受話器を置き、腕を組みながら目を瞑っている。暫く沈黙の時が流れた。漸くオヤジは目を開き、ゆっくりと口を動かした。
「村田はダメだ。二ヶ月前、バイクの事故で亡くなった」
美奈子は背筋が寒くなり、喉が凍りつきそうになった。お台場の砂浜で、不器用なチークを踊った思い出が自然と頭の中を通り過ぎる。パソコン脇のペン立てに残された直樹の青い蛍光ペンが、寂しそうに美奈子を見つめるようだった。もう少し優しくしてあげれば良かったと、涙を流しながら窓ガラスを見つめ、美奈子は静に唇を噛み締めた。
窓ガラスには大河のようにサラサラと水が流れていた。水の向こうでは強い風が吹き荒れており、路駐のバイクが静に揺れている。サイドミラーに掛かったライトブルーのヘルメットが、悲しい顔で泣いているようだった。バイクの脇では、黒いローブをまとった魔術師が不気味な笑顔を浮かべていた。
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