1カラットの奇跡 第三話 夕日のダンスタイム(1)
その日は、朝から小雨が降っていた。雨の日は、何となく会社に行くのが億劫だった。それに、足元が濡れて気持ちが悪い。無理をして、風邪を引くのも馬鹿馬鹿しい。そんな気持ちをやっとのことで抑えて、和也は公園の脇を通り過ぎていた。
何時ものカフェ喫茶に和也は着いた。入口で青い傘の雫を払って、彼は中へと入った。お気に入りのシナモンロールを、茶色のトレイに載せようと、彼は前に少し屈んでいる。そして、ペンダントがネクタイの下からずれていた。ペンダントは、また薄青い閃光をほんの一瞬放った。
和也は目を疑った。慌てて、ペンダントを右手でつかんで、ショーケスの蛍光灯に透かした。しかし、何も異常はなかった。彼は暫く考え込んで立っていた。
和也の後ろで迷惑そうな顔をして、OLが彼を見ていた。彼はOLに気がついて、軽く会釈をして誤魔化した。そして、レジに向いラテを注文した。
和也はスポーツ新聞の競馬欄をテーブルに広げている。朝の優雅なラテを彼は味わっていた。彼はマルボロに火をつけて、ゆっくりと煙を吐き出した。そのとき、突然、
「おはようさんです」
裕子は右手にキャラメルラテの入ったマグカップを持って、少し緊張して明るく高い声で笑っていた。鶯色の出勤用のスーツで立っている。その為、彼女の胸の大きさは、合コンのときよりは控えめだった。
「何で、お前がそこに立っているのだ」
「福山さんから聞いたのです。佐藤さんが、毎朝ここに居ることを。ここに座っても良いですか?」
「良いが、俺の競馬研究を邪魔するな」
和也は少し迷惑そうに言った。一日の中でも一番大切なその朝のひと時を、彼は誰にも邪魔されたくなかった。裕子をあまり構わずに、彼はシナモンロールを齧って、新聞を読んでいた。
裕子は黙って暫くその姿を見ている。そして、嬉しそうに目を大きくしていた。
和也は、裕子の視線が少し気になって、時折、彼女の顔に目をやっていた。
裕子はタイミングを計っていた。そして、少し硬い表情で、大きく息を吸って、彼の顔を覗いた。
「あの、明日、バイクの乗り方を教えてもらえませんか。私をツーリングに連れて行って下さい」
「はあ、急に何だ。俺はバイクを、今は持っていないから、教えられないぞ」
「でも、この前、廊下で声を掛けてくれたでしょう。教えてくれるって。佐藤さんから誘われて、凄くうれしかったのです。それに、バイクなら、私が持っていますし」
裕子は目を光らせて両手を頬につけた。
「あっ、あれは、挨拶というか。何だ、その、ほら。それに持っていると言っても、一台だけだろう。二人では、ツーリングに行くのは無理だぞ」
「私は、タンデムシートで十分です。その方が、ラインも覚え易いですし」
「いや、土曜日は、重要な用事がある」
「重要な用事って、WINSですね」
「何で、お前がそれを知っている」
「私、佐藤さんのことなら、何でも知っているのです。福山さんから全部聞きましたから。朝、馬券を買い終わった後でも良いです。それに、美味しいお弁当も、沢山作って持って行きますし」
「しかし、レースも見ないと行けないから、終わるのは夕方だ。夕方からツーリングはないだろう」
「佐藤さんって、嘘つきなのですね。廊下で約束したのに。凄く楽しみにしていたのに。私、ここで、大きな声で泣いても良いですか?」
裕子は顔を崩して泣きそうな顔を見せていた。
慌てて、和也は裕子の顔の前に右手を突き出した。
「いや、待て。泣かれるのは困る。それは脅迫だぞ。でも、あれは約束か?」
「はい、私にとっては、大事な約束だったのです」
裕子は得意な顔で胸を張った。
「ヨッシャー、わかった。俺も紳士だ。連れて行ってやる」
その言葉は、裕子に明るい笑顔を取り戻させた。それから、彼女は翌日の弁当のおかずの話を始めていた。彼女は玉子焼きには自信があると言った。
和也は、叶わないと思った。ライフサイクルになっている週末のWINS通いを壊されたくなかった。そして、何よりも思考パターンの読めない歳の離れた若い娘と、出掛けることに少々不安があった。
真のギャンブラーは、予想できないレースは降りることが鉄則だった。しかし、裕子の大きな胸の感触を背中で味わえることを想像した瞬間に、全ての迷いは彼から消えていた。
和也は何気なく壁に目をやった。そして、店内の白い大きな壁時計の針は、八時五分を回っていた。
「おい、遅刻だ」
慌てていた和也は、無意識のうちに裕子の手をつかんで、走り出して店を出た。
雨はもうやんでいたが、歩道はまだ湿っていた。ヒールの裕子には、濡れて滑る歩道は辛かった。しかし、和也の香りが手から伝わって、頬を赤らめて胸を躍らせていた。そして、彼女は彼と一緒に走っている。
もう出社している社員も居なくなった会社の入口に、二人は着いた。手を握っていることに気がついた和也は、慌てて手を放した。彼は少し気まずかった。
「ありがとうさんです。明日が、楽しみです。それでは、先に行きますね」
裕子は、目を細めて微笑んで礼を言った。そして、跳ねるように階段へ消えた。
その余韻を楽しむように、ロビーに和也は立っていた。
少し遅れて、ロビーに現れた浩二は、ニヤニヤして、和也の後ろから背中を軽く叩いた。
「佐藤さん、何を朝から、ラブストーリーをやっているのですか」
「そんなことは、やっていない」
「でも、手を繋いで入る所を見たのですが、大胆ですね。しかも、ここは会社です」
「うるさい! 色々と諸事情の弾みだ。それに、お前が彼女に、俺の朝の憩いの場所を教えたのだろう」
「いや、あまりにも真剣に聞かれので、つい」
「ついではない!」
「あっ、そんなことより、まずいです。遅刻です。課長に怒鳴られますよ。早く行かないと」
二人は走ってエレベータに乗った。
何時ものカフェ喫茶に和也は着いた。入口で青い傘の雫を払って、彼は中へと入った。お気に入りのシナモンロールを、茶色のトレイに載せようと、彼は前に少し屈んでいる。そして、ペンダントがネクタイの下からずれていた。ペンダントは、また薄青い閃光をほんの一瞬放った。
和也は目を疑った。慌てて、ペンダントを右手でつかんで、ショーケスの蛍光灯に透かした。しかし、何も異常はなかった。彼は暫く考え込んで立っていた。
和也の後ろで迷惑そうな顔をして、OLが彼を見ていた。彼はOLに気がついて、軽く会釈をして誤魔化した。そして、レジに向いラテを注文した。
和也はスポーツ新聞の競馬欄をテーブルに広げている。朝の優雅なラテを彼は味わっていた。彼はマルボロに火をつけて、ゆっくりと煙を吐き出した。そのとき、突然、
「おはようさんです」
裕子は右手にキャラメルラテの入ったマグカップを持って、少し緊張して明るく高い声で笑っていた。鶯色の出勤用のスーツで立っている。その為、彼女の胸の大きさは、合コンのときよりは控えめだった。
「何で、お前がそこに立っているのだ」
「福山さんから聞いたのです。佐藤さんが、毎朝ここに居ることを。ここに座っても良いですか?」
「良いが、俺の競馬研究を邪魔するな」
和也は少し迷惑そうに言った。一日の中でも一番大切なその朝のひと時を、彼は誰にも邪魔されたくなかった。裕子をあまり構わずに、彼はシナモンロールを齧って、新聞を読んでいた。
裕子は黙って暫くその姿を見ている。そして、嬉しそうに目を大きくしていた。
和也は、裕子の視線が少し気になって、時折、彼女の顔に目をやっていた。
裕子はタイミングを計っていた。そして、少し硬い表情で、大きく息を吸って、彼の顔を覗いた。
「あの、明日、バイクの乗り方を教えてもらえませんか。私をツーリングに連れて行って下さい」
「はあ、急に何だ。俺はバイクを、今は持っていないから、教えられないぞ」
「でも、この前、廊下で声を掛けてくれたでしょう。教えてくれるって。佐藤さんから誘われて、凄くうれしかったのです。それに、バイクなら、私が持っていますし」
裕子は目を光らせて両手を頬につけた。
「あっ、あれは、挨拶というか。何だ、その、ほら。それに持っていると言っても、一台だけだろう。二人では、ツーリングに行くのは無理だぞ」
「私は、タンデムシートで十分です。その方が、ラインも覚え易いですし」
「いや、土曜日は、重要な用事がある」
「重要な用事って、WINSですね」
「何で、お前がそれを知っている」
「私、佐藤さんのことなら、何でも知っているのです。福山さんから全部聞きましたから。朝、馬券を買い終わった後でも良いです。それに、美味しいお弁当も、沢山作って持って行きますし」
「しかし、レースも見ないと行けないから、終わるのは夕方だ。夕方からツーリングはないだろう」
「佐藤さんって、嘘つきなのですね。廊下で約束したのに。凄く楽しみにしていたのに。私、ここで、大きな声で泣いても良いですか?」
裕子は顔を崩して泣きそうな顔を見せていた。
慌てて、和也は裕子の顔の前に右手を突き出した。
「いや、待て。泣かれるのは困る。それは脅迫だぞ。でも、あれは約束か?」
「はい、私にとっては、大事な約束だったのです」
裕子は得意な顔で胸を張った。
「ヨッシャー、わかった。俺も紳士だ。連れて行ってやる」
その言葉は、裕子に明るい笑顔を取り戻させた。それから、彼女は翌日の弁当のおかずの話を始めていた。彼女は玉子焼きには自信があると言った。
和也は、叶わないと思った。ライフサイクルになっている週末のWINS通いを壊されたくなかった。そして、何よりも思考パターンの読めない歳の離れた若い娘と、出掛けることに少々不安があった。
真のギャンブラーは、予想できないレースは降りることが鉄則だった。しかし、裕子の大きな胸の感触を背中で味わえることを想像した瞬間に、全ての迷いは彼から消えていた。
和也は何気なく壁に目をやった。そして、店内の白い大きな壁時計の針は、八時五分を回っていた。
「おい、遅刻だ」
慌てていた和也は、無意識のうちに裕子の手をつかんで、走り出して店を出た。
雨はもうやんでいたが、歩道はまだ湿っていた。ヒールの裕子には、濡れて滑る歩道は辛かった。しかし、和也の香りが手から伝わって、頬を赤らめて胸を躍らせていた。そして、彼女は彼と一緒に走っている。
もう出社している社員も居なくなった会社の入口に、二人は着いた。手を握っていることに気がついた和也は、慌てて手を放した。彼は少し気まずかった。
「ありがとうさんです。明日が、楽しみです。それでは、先に行きますね」
裕子は、目を細めて微笑んで礼を言った。そして、跳ねるように階段へ消えた。
その余韻を楽しむように、ロビーに和也は立っていた。
少し遅れて、ロビーに現れた浩二は、ニヤニヤして、和也の後ろから背中を軽く叩いた。
「佐藤さん、何を朝から、ラブストーリーをやっているのですか」
「そんなことは、やっていない」
「でも、手を繋いで入る所を見たのですが、大胆ですね。しかも、ここは会社です」
「うるさい! 色々と諸事情の弾みだ。それに、お前が彼女に、俺の朝の憩いの場所を教えたのだろう」
「いや、あまりにも真剣に聞かれので、つい」
「ついではない!」
「あっ、そんなことより、まずいです。遅刻です。課長に怒鳴られますよ。早く行かないと」
二人は走ってエレベータに乗った。
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